周りに合わせる行為なのか,共有する行為なのか

kazu | 未分類
16 7月 2016

今の勤務先に異動して4ヶ月を迎えようとしている。
その中で,問いが生まれるたびに,自分が問われる。
周りの先生が,主張したとき,うなづいては見せるが,共有はしていない自分。
共有できないときに,共有できないことを伝えられない自分。
市川に居た頃は,頷くことさえできなかった自分が,ここまで流されることに拘らなくなったことに驚く自分。
まあ,どっちでもいいかって思える自分になった。
そうなっていけば,いくほど,本当にいいのかと問う自分がいる。
今,私はここに(こことは,環境であり,心もちであり)居てはいけない。
脱出したい。

One Comment

  1. yumi より:

    千恵里の職場を見てきました。毎日12時間以上勤務。
    ブラック企業と言われても仕方ない労働条件。うまくいかなくて、怒られる時は、怒られている自分を冷めた目で見ているもう一人の自分がいるらしい。指定管理の会社が複数入っている事による軋轢、ひずみ、‥そんな中でもあちこちの人のいい分をいちいち受け止めて、だから余計に時間がかかってしまう。そんな千恵里の働きぶりをそのままみてきました。

    以前私がいろんな事や人のあれこれにすぐ噛みつき「でも‥」というと「でも はいうな。」と田中先生に怒られたこといまだに身にしみていて、言いたくなるとぐっと言葉を飲み込みます。(のはずですがに言ってしまうこと多々ですが)

    対話って何だろうと思います。自分が納得しない事をきき続けようとしても、相手の声を聴こうとできなくなってしまう。相手を受け止めるためには、それなりの覚悟や度量がないとだめなんだとしみじみ思います。自分は黒と思っている事を白と言う人の言い分を聞く事が無駄だと思っていた頃は物事の様々な面が見れなかったと思います。咀嚼した上で、冷静に論理的に私はこう思う、そういえたらいいなあ、と思います。そういう話し合いができることが理想です。

    先日教室の2年生のクラスで、子どもたちが全く話し合いができない状況に出くわしました。お友だちと話し合って決める事がなぜできないのか驚きでした。小さいクラスではジャンケンをしたがらない子が何人も。負けるのがいやだから、という理由でした。子どもたちのかかわり合いのぎこちなさは大人の社会の投影なのかもしれません。

    先生が、時間をかけて咀嚼したものを、一気に吐き出していく瞬間に私は立ち会いたいです。そのためにも今の悶々としている期間は本当に尊く大切な時間である事は信じて疑いません。

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