ミスドの集い
kazu | 未分類24 4月 2011
最近,ちょくちょく「中野リトミック」の前のミスドの集いに参加させてもらっている。その中で,いろいろと思うこと,気付くことがある。昨日もあった。由美先生からの「対話」という言葉の意味の掘り下げができたのだ。
この間の音楽集会から感じた言葉だという「対話」
全校集会,児童集会,運動会,音楽会…実は,全校や集団が集まる異年齢の集う場は振り返るといくらでもある。なにか,「こと」を起こそうとすると,改めてその時間を創らなくてはならないと思うから大変なのだ。もっともっと言うなら,若干,昔は,お宮に子どもたちが弟,妹,兄,姉と連れだって集まり,野球やったり,おいかけっこやったり,かくれんぼやったり,お宮の軒下の虫を捕まえたりした。異年齢の集いはあった。学校の下校までの時間も遊んだ記憶がある。…行き着くところはここかもしれない。
来年,木島平小に放課後遊べ時間を創ってみることはできないか。ここに自然な異年齢集団のつながりが生まれてくると思う。何でもかんでも教師が企画する授業の中で異年齢集団との学びあいがあるわけではないのだ。自然な対話も生まれるだろう。
ミスドの集いもまさに異年齢集団である。異なった年齢ということばかりでなく,異なった考えの集まりである。その中で学びあえることは何か…例えば丸山さんのコメントを見ると,「いっぱい、いっぱい、失敗したけれど、たくさん笑い、どこかでホッとしている自分がいました。」とある。プラス思考の人のコメントだなあと思った。でも,その前に書かれていた「自分が熱中すると周りが見えなくなる」とあるが,果たして熱中なのか,自己中で聞いていないだけなのか,そこを探ってみたら次の自分はどう変わるだろう。よく,子どもたちが「周りで支えようとしてくれている人が居ることに気付けなかったから(気付いたから)今度は気付くようにしたいです」みたいな発言が出る。でも,大抵,次の時も気付かない(気付けない)。いつも堂々めぐりとなる。それは,本当にそう思っていないか,気付くと言うことの意味を自分の言葉で掘り下げて語っていないからである。自覚していないのである。奈央が見栄えだけで班長をやる姿をみて何を感じ,自分はどうしたいと思ったか…須坂高校に行った兄,陸上で頑張っている妹を「目に見える見栄えで評価する大人」を見て,何を感じ,自分はどうしたいと思ったか…親も子も同じところに立っている。由美先生が,義妹と話した時,その人は「どこから話そうかな」とつぶやいたという。自分の過去をどこまでさかのぼり,披瀝しようとしていたか…悔やんでも過去はやり直せない。その悔い改めが人間を深くしていくのだとしたら,反省的実践(具体のなかで)が求められている気がしてならない。若き親に何を話しますか? 当然と思って育ってきた「自分のあたりまえ」の子育てにどんな対話をしますか?
はっとして、「こうじゃない」と思っても、また同じ事の繰り返し。その連続の中で生きてきた。そんな中でも、毎日のどこかにキーワードが浮かんでくる。それがいつくらいのことだったか‥。
例えば、音楽集会を見ながら、自分のレッスンが重なってくる。自分の発した言葉が、誰に向かっていたかを考える。以前、中垣先生がたった3人しか集まらない会で講演した事を話してくださった。聞いてくれ人が入れば、それが何人であろうとかまわない、理屈はそうである。
気合い入れていたのに、たくさん集まらないところでがっかりしながらリトミックをする自分に重ねてみる。なんで、来てくれないの?やってみればいいのに!そう思いながら、きっとリトミックをやってきた。
一人一人を大切に、を歌いながら、どこかで大衆にアピールする自分が必ずいた。
だからずっと一人だったのかもしれない。誰も近寄れなかったのかもしれない。
多恵さんがチームと行ってくれた時、心から嬉しかった。どこにあっても、人は一人では限界がある。願いが同じところの人とどうやってつながり、対話していくか。毎日悩みながら進む。
(対話する事で、願いが同じでない事に気付いてしまう事も多々)
これから拡大ミーテイング。
「自分が熱中すると周りが見えなくなる。」
本当に熱中か?
いや、勝手な思いで突っ走っていて、聞いてない、自己中の自分の姿がみえてきて・・・
ミスドで、「カラマーゾフの兄弟」の本の話になった時、田中先生が「通り一遍で、読みが浅いんじゃないの?」
とおっしゃられた時、「グサッと核心をつかれた!」
と思いました。
これは本のよみのことだけではなく、まさに私自信のことだと・・・・・・・・
私の子育ては、自分勝手な自分の都合に、子どもたちをあわせようとしていました。
遊びに熱中している子どもに向かって「時間だから帰るよ。」
と言うと「帰らない、まだ遊ぶ。」
という子どもに向かって、「もー、わがままはだめよ。」
と言っていた自分。
わがままは私なのに・・・・・・
いっぱい、いっぱい、間違った子育てをしていた。
思い出す度、ざんげの思いでいっぱいで、胸が張り裂けそうになる。
過去は変えられない、そして私の罪は一生消えない。
せめて、これからの私が、少しでも、ほんの少しでも前に進めるよう、あがき続ける・・・・・・
奈央は何か話したいことがあると決まって「お母さん、一緒にお風呂はいろう」って言ってきます。中学になっていろいろ場面で悩む、迷ってる、自分はこれでいいのか・・・。
寛之とは最近本気で言い合いしたり、逆に「お母さんは俺の話聴いてない」って言われてはっとした。 きっと聴いてもらうだけでいいんだろうなあ、「それでいいんだよ、だいじょうぶ」って言ってあげたい時、「それでほんとにいいの?」って言いたくなる時 そのとき思うのは自分も寛之も奈央も同じ、親だからとか大人だからというのではなく同じ人としてだということです。
もっと突き詰めて話すべきだったと反省してるときに見えてくること・・・自分は中身がうすっぺらで浅い。田中先生がおっしゃるように自分の言葉で掘り下げて語ってないんだと思います。
対話って言葉だけでなく相手の目、表情、何も言わなくても対話なんだなあって思うことがあります。2歳児のクラスでの毎日の中で、0歳の赤ちゃんも全身で発してる
18人の2歳児を3人でみていますが、毎日試行錯誤。2人では見えなかったことが3人だと見えてくることが多い。
失敗してみてみないとわからないことも多いけどその大変さを一緒に楽しめたらいいなあと思います。
やっぱり子供を中心にすえてお互いがどこまでとことん話せるか。どれだけ自分と対話できるか・・・自分のことを受け止めてもらいたいと思うなら。相手を受け止めたいなら。
ミスドでのおはなし・リトミックでのかけがえのない時間 呼吸できる場所に居させていただいたことから一転、夜、野球部保護者会に出かけました。雰囲気が異様だと感じても、私は、もう、その中の一員。人のことではない・・・この中でどう生きて行くかは自分次第。と思いました。
翔は、今、貴重な時間を過ごしている気がします。全否定される中にいるみたいです。毎朝の応援練習では、レギュラーメンバー、1人1人ちがう応援歌がなかなか覚えられず、先輩から「しばくぞ」と気合いをいただいたり・・・、土・日、2軍の練習試合に出させてもらったものの、自分がピッチャーの時、2失点、3失点となってしまったこと・・・翔は何も語らないのですが・・・たぶん、昨夜は眠れていないと思います。だけど、今朝も手を震わせながら朝ごはんを食べ、応援練習に出かけて行きました。特別なことではない、翔の日常。なんとなく、思ったのは、全否定の中でも、対話があるんだなあ。と。今はどんなにつらくても、たとえ、理不尽でも、先輩の言うことを「ありがとうございます」って言って全部受け入れて聞くしかない。言われたことに対して、自分の行動で示すしかない・・・。翔にとって、絶対必要なこの時間。ただ、つらいことではないです。やがて、それは、「人に言われたこと」ではなく、「自分のもの」になっていくことを、信じています。
「テニス部の練習、たまにしかしないんだって・・・そのほかの日、うち、どうしよう・・・」と、さんざん独りごとを言っていた彩は「自主練していいですか?って先生と部長に聞いたら、いいんだって。1年女子、うちだけだ。女をすてるよ」・・・と。
4月ひと月かけて、分かったこと。高校は義務教育ではない。自分の責任において、進んでいくところ。こどもに寄りかかってきたのは、私のほうでした。さあて。これからです。
土曜日、ミスド、リトミックとありがとうございました。
由美先生が「何かあったときがチャンス」という言葉も私のなかではまだ全然育っていないと思いました。
貴や智ともただただ・・・その時の時節を滞りなく過ぎるべくのための言葉のやりとりをしていたにすぎないと・・・振り返っても思います。留年の間・・不思議に時節のやりくりややりとりに虚しさを感じる程に・・・少しずつ貴が言う・・・回り道や無駄な話に耳を傾ける自分がいて・・聞いているとたかの今の思いが少し聞けて、物語を思っている自分がいて・・・今ではなんだかとっ、ても感謝でいっぱいです。
先日、ブックオフでたまたまインドの哲学みたいな本があって、インドか・・と思い、手にとってぱっと開いたページに、「あなたは、おしゃべりはしてはいけません・・・「いのちのこと」を話すときだけ、しゃべりなさい・・・」との文が飛び込んできました。貴、智、翔君達、なおちゃん達・・・いのちのこと・・・子ども達はいのちのこと・・・いつも話している・・・。
そう、私は、・・子ども達とのおしゃべりは、時節や世間の事・・・。貴や智もそんなこと知ってる、それよりもきっと「いのちのこと」は、今の私には話せないでいるのだろう・・・。由美先生、皆さんにも私、そのおしゃべりでどれだけ迷惑をおかけしているかを思い、本当に申し訳なくて、情けなさが込み上げてくるばかりです。
リトミックの子ども達の姿も、身体いっぱいに、友達同士、いのちの対話をしているんだと思いました。
異年齢のお若いお母さん方とおしゃべりだけではなくて、いのちの対話を出来たらどんなにいいだろう。テストの点は時節のこと、やがては無常の彼方へ・・・。大切な事、何か感じられる瞬間が身体に残っていく対話、言葉だけではないし、一見無駄なような事にも何かある・・・大切なこと・・・。
先日、リトミックの「あんたがたどこさ」の相手を智にお願いしたいと思って、(学校のこと、受験のこと・・いろいろ忙しそうでちょっと聞くと、険しい厳しい目で見ていますので・・おしゃべりはいけないと思い・・・)おそるおそる、「今、足元に4枚のパネルか円があると思って・・・「さ」の時、すぐ前のパネルに飛ぶんだよ・・」「こうでしょ、分かった!」ととも身体が動いて・・・見るとちょっと笑顔です。「何で分かるの?」と思いながら、二人で、あんたがたどこさを飛び跳ねました。智は不思議にすらすら動いて、私は「さ」のところで、間違えてばかりで智の邪魔をしています。
間違える私に智は苦笑いしながらも、笑いながら何度も繰り返してくれます。なんだか何年分もの対話をさせていただいたような気持ちがしました。
中垣先生のお話、私も是非聞かせていただきたいです。
照れながら、中野さんと「あんたがたどこさ」やってるとも君の顔が思い浮かびます。
やっぱりそれがとも君なんだなあ。
由美先生に教えてもらったピアノ・・・きっとこれからいろいろつながって根っこが伸びていくんだと思います。
本当に・・・ピアノ、リトミック・・・由美先生に学んだ智・・・私はそんな智の道を阻むことのないように、これからも勉強していかないといけないなと思いました。
田中先生、由美先生、皆さん、いつもいつもありがとうございます。
前回の中野リトミックでもありがとうございます。多恵さん、美加さん、たか代さんと珍しく大人だけのリトミックでしたが、ここでも又、勉強になりました。由美先生の動物園のリズム、カノン・・・言葉に注意しているとリズムが分からなくなったり、順番が分からなくなったり・・・。由美先生からお聞きする子ども達の柔らかな姿を思い描きたいな・・・と思いながら言葉にしっかりしがみついている自分がいました。皆さんと輪になりながら、お猿さん、コアラさん、ナマケモノさん・・・それがすらすらと出てこないで、とにかく皆さんの顔を穴の空くほど見つめていた私です。たか代さんの後を付いていくとすらすらと出てくるのですが、いざ自分からだとつまずくばかり・・・記憶力も心配です。
由美先生のリトミックの子ども達の姿・・・子ども達の感性にも、そして皆さんにも、私は全然かなわないのですが、身体を動かしながら学ばせていただけることも・・・感謝でいっぱいです。