やっと読み終えて、息をふーっと吐き出しました。この小説いつ書かれたんだっけ?と思ってしまいました。
読み終わった方、是非感想お聞かせください。
柳原のリトミックで、由美先生の車から荷物を運びだす時、助手席にカラマーゾフの兄弟(下)が置かれているのをみて、私も帰ってから読もうと思い・・・・
あの日の夜、読み終えました。
読み終えてまず思ったこと、ドストエフスキーは未来がみえたのか?まさに現代のことをかかれたのではないか?と思いました・・・・
罪のない子どもたちが残虐に殺されていく場面はまさに現代の幼児虐待事件や無差別殺人と重なってみえたり、東日本大震災の場景が浮かんだりした。
今、生かされている意味を問われているような気がしました。
そして、生あるものは必ず死ぬ。だからこそ今あなたはどう生きますか?と、問われているような・・・・・
そんななか、最後のアリョーシャが子どもたちに語りかけることばに光を感じ、 「人生は捨てたもんじゃない、だから希望を持ってがんばろう」 と言ってるような・・・・・
しかし、読めば読むほど色々な声が聞こえてくるような気がします。
もう一度、最初から読んでみようと思い、読み始めてます。
それにしても、上、中、下と読むのにかなり時間がかかりました。
いつも、読んでいるうちに眠くなってしまい、うたた寝の連発!
とくに、上の終わりの部分は何をいっているのか分からず・・・
いまだに分からないのですが・・・・・・
ももちゃんが、少し前メールで返信してきた事につきるのかな、と言うのが私の感想。 「最近めまぐるしくいろんな変化がありますが、逆にシンプルになっていっている気もします。大切な事やぶれてはいけない事は、どうしたって一緒なんだなあと気付いたり、名作を読めば読むだけ、どうしてこうも、今の自分にぴったりな事が書かれているのかと驚いたり。‥」
私は「本当に大切な事」を思いました。そして人の外見や言葉やそういう飾りのところではなく、その人の何を見るのか、信じるべきものは何なのか、それについて確信を持ちました。
だからあれだけ、いろいろな人物がそれぞれ際立った個性とともに描かれていたのだと。
確かに上巻の最後は難関でしたが、最後には持ち歩かずにいられなくなりました。聖書や文学作品のあれだけの引用も本当に考えさせられます。私がこだわったヨブ記の引用があった事も、今私が向き合っている親のあり方も、心理学が諸刃の刃であるということとと私が音楽療法に抱いている懸念との共通項にしても、恐ろしいくらい今の私が問うている事につながっているのです。
でも作者はちゃんと答えを示してくれた。何年も前のロシアの文学者が、今の私の悩みを見越したかのように。
ももちゃんもきっと同じ事感じたんだろうな。そう思いました。
読み終えた・・・というところからはほど遠いのですが、読みながら、ゆらゆらしていることがあります。ものすごく語弊がある言い方ですが、”いい人ぶっている自分”が見えて、なんだか気持悪い・・・そんな生き方を変えたい・・・このところ、ずーっと人との関係の中で、ゆらゆらしていたことでした。
先週、野球部のご飯当番のあとの夜中、先輩たちにガストに連れて行ってもらいました。 その時の話題は、部内のいじめについて。N君のいじめによって、M君がもう2ヵ月も登校できていない現状。だんだんと事実関係が明らかになってくる中、母たちは、N君のことをひどく言う。 Tさん「そういえば、N、翔の机に教科書入れてるんだって。だから、翔いつもロッカーまで自分の荷物入れに行くって。」 多「やだ、それ、翔どんくさいね。」 Tさん「そうじゃなくって、翔がそうされているの見て、YがNのことを、やだっていうんだよ。弁当も食っちゃうらしいじゃん」 多「YくんがNくんのこと嫌っていうのと、翔がドンくさくて、そういう状況になっているのは関係ないじゃん。嫌なら、ダメって言えない翔だってどうかと思う。」
だれか悪者をつくって、私は正しい人みたいな顔すること・・・私はどこか、ずーっとそんな生き方をしてきてしまったのではないか。それがどうにもこうにも嫌になって、ボロボロと口から出てしまいました。それは、相手がTさんで受け止めてくれる人だったからかもしれません。 そんな様子を笑って見ていた先輩は、「おめえはバカだな」と言って、焼きドーナツを3個くれました。
翔を拾って帰り道 多「翔さあ、机の引き出し、Nくんと共同で使っているんだって」 か「別に、そうじゃないよ。強引に教科書いれて行っちゃうんだよ。ダメって言おうとしても、すごい早技でさあ。」 多「どんくさいね」 ・・・翔、むっとして先輩からもらったドーナツを3個とも食べた。 多「あ~、お母さんが貰ったドーナツなのに。楽しみにしてたのに。全部食べちゃって、あ~もう、ばっかじゃないの?」 か「だって、食べるって言わなかったじゃん」 ~ああ、そうか。私が食べるから一個残しといてって言わなかったんだ~ 多「そっか。そうなんだよ。Nくんが・・じゃなくって、嫌だってアピールしない翔だっていけないんじゃないの?あんたがやられる人になっちゃうから、Nくんがやる人とか、いじめっ子とかになっちゃうんじゃないの?」 か「・・・」 ものすごい気まずい空気が流れました。
次の日 か「失敗したよ」 多「ピッチング?」 か「机のこと。」
また次の日 か「成功したよ」 多「ピッチング?」 か「机のこと。朝行って、Nくん来る前に中身全部出して、Nくんの机の上に置いたんだ。授業終わってから、またNくん、お願い~って言って教科書持って来たんだけど、机の中いっぱいだからだめだよ。って言ったら諦めたんだよ。ただ、それだけのことだ」
ただ、それだけのこと・・・そうかあ・・・
翔に母親ぶって偉そうなこと言ったくせに、私はどうなの?例えば相手が私の怖い先輩だったらどうかな・・・と思った時、甚だ怪しい自分がいます。・・・怪しいと思いながら、何を意固地になって、また、こどもにいろいろ言うんだろう・・・・
人がたいへんそうだ。と思う時、「大丈夫?」「休んだら?」としてきていた自分がいます。・・・前への一歩の力になることは、そういうことじゃないのではないかなあ・・・人との間で、生かされている自分・・・その中でゆらゆらしています。
ビデオ借りて下さい
You must be logged in to post a comment.
柳原のリトミックで、由美先生の車から荷物を運びだす時、助手席にカラマーゾフの兄弟(下)が置かれているのをみて、私も帰ってから読もうと思い・・・・
あの日の夜、読み終えました。
読み終えてまず思ったこと、ドストエフスキーは未来がみえたのか?まさに現代のことをかかれたのではないか?と思いました・・・・
罪のない子どもたちが残虐に殺されていく場面はまさに現代の幼児虐待事件や無差別殺人と重なってみえたり、東日本大震災の場景が浮かんだりした。
今、生かされている意味を問われているような気がしました。
そして、生あるものは必ず死ぬ。だからこそ今あなたはどう生きますか?と、問われているような・・・・・
そんななか、最後のアリョーシャが子どもたちに語りかけることばに光を感じ、
「人生は捨てたもんじゃない、だから希望を持ってがんばろう」
と言ってるような・・・・・
しかし、読めば読むほど色々な声が聞こえてくるような気がします。
もう一度、最初から読んでみようと思い、読み始めてます。
それにしても、上、中、下と読むのにかなり時間がかかりました。
いつも、読んでいるうちに眠くなってしまい、うたた寝の連発!
とくに、上の終わりの部分は何をいっているのか分からず・・・
いまだに分からないのですが・・・・・・
ももちゃんが、少し前メールで返信してきた事につきるのかな、と言うのが私の感想。
「最近めまぐるしくいろんな変化がありますが、逆にシンプルになっていっている気もします。大切な事やぶれてはいけない事は、どうしたって一緒なんだなあと気付いたり、名作を読めば読むだけ、どうしてこうも、今の自分にぴったりな事が書かれているのかと驚いたり。‥」
私は「本当に大切な事」を思いました。そして人の外見や言葉やそういう飾りのところではなく、その人の何を見るのか、信じるべきものは何なのか、それについて確信を持ちました。
だからあれだけ、いろいろな人物がそれぞれ際立った個性とともに描かれていたのだと。
確かに上巻の最後は難関でしたが、最後には持ち歩かずにいられなくなりました。聖書や文学作品のあれだけの引用も本当に考えさせられます。私がこだわったヨブ記の引用があった事も、今私が向き合っている親のあり方も、心理学が諸刃の刃であるということとと私が音楽療法に抱いている懸念との共通項にしても、恐ろしいくらい今の私が問うている事につながっているのです。
でも作者はちゃんと答えを示してくれた。何年も前のロシアの文学者が、今の私の悩みを見越したかのように。
ももちゃんもきっと同じ事感じたんだろうな。そう思いました。
読み終えた・・・というところからはほど遠いのですが、読みながら、ゆらゆらしていることがあります。ものすごく語弊がある言い方ですが、”いい人ぶっている自分”が見えて、なんだか気持悪い・・・そんな生き方を変えたい・・・このところ、ずーっと人との関係の中で、ゆらゆらしていたことでした。
先週、野球部のご飯当番のあとの夜中、先輩たちにガストに連れて行ってもらいました。
その時の話題は、部内のいじめについて。N君のいじめによって、M君がもう2ヵ月も登校できていない現状。だんだんと事実関係が明らかになってくる中、母たちは、N君のことをひどく言う。
Tさん「そういえば、N、翔の机に教科書入れてるんだって。だから、翔いつもロッカーまで自分の荷物入れに行くって。」
多「やだ、それ、翔どんくさいね。」
Tさん「そうじゃなくって、翔がそうされているの見て、YがNのことを、やだっていうんだよ。弁当も食っちゃうらしいじゃん」
多「YくんがNくんのこと嫌っていうのと、翔がドンくさくて、そういう状況になっているのは関係ないじゃん。嫌なら、ダメって言えない翔だってどうかと思う。」
だれか悪者をつくって、私は正しい人みたいな顔すること・・・私はどこか、ずーっとそんな生き方をしてきてしまったのではないか。それがどうにもこうにも嫌になって、ボロボロと口から出てしまいました。それは、相手がTさんで受け止めてくれる人だったからかもしれません。
そんな様子を笑って見ていた先輩は、「おめえはバカだな」と言って、焼きドーナツを3個くれました。
翔を拾って帰り道
多「翔さあ、机の引き出し、Nくんと共同で使っているんだって」
か「別に、そうじゃないよ。強引に教科書いれて行っちゃうんだよ。ダメって言おうとしても、すごい早技でさあ。」
多「どんくさいね」
・・・翔、むっとして先輩からもらったドーナツを3個とも食べた。
多「あ~、お母さんが貰ったドーナツなのに。楽しみにしてたのに。全部食べちゃって、あ~もう、ばっかじゃないの?」
か「だって、食べるって言わなかったじゃん」
~ああ、そうか。私が食べるから一個残しといてって言わなかったんだ~
多「そっか。そうなんだよ。Nくんが・・じゃなくって、嫌だってアピールしない翔だっていけないんじゃないの?あんたがやられる人になっちゃうから、Nくんがやる人とか、いじめっ子とかになっちゃうんじゃないの?」
か「・・・」
ものすごい気まずい空気が流れました。
次の日
か「失敗したよ」
多「ピッチング?」
か「机のこと。」
また次の日
か「成功したよ」
多「ピッチング?」
か「机のこと。朝行って、Nくん来る前に中身全部出して、Nくんの机の上に置いたんだ。授業終わってから、またNくん、お願い~って言って教科書持って来たんだけど、机の中いっぱいだからだめだよ。って言ったら諦めたんだよ。ただ、それだけのことだ」
ただ、それだけのこと・・・そうかあ・・・
翔に母親ぶって偉そうなこと言ったくせに、私はどうなの?例えば相手が私の怖い先輩だったらどうかな・・・と思った時、甚だ怪しい自分がいます。・・・怪しいと思いながら、何を意固地になって、また、こどもにいろいろ言うんだろう・・・・
人がたいへんそうだ。と思う時、「大丈夫?」「休んだら?」としてきていた自分がいます。・・・前への一歩の力になることは、そういうことじゃないのではないかなあ・・・人との間で、生かされている自分・・・その中でゆらゆらしています。
ビデオ借りて下さい