社協へ
yumi | member, yumi1 2月 2012
父が毎週水曜の午後行っていた社協へ母と挨拶に出かけた。皆さんが父が書道をやっていた部屋でおしるこを食べていた。
葬儀のあと、人に父の事を話したり、病気の過程のこと、亡くなるまでの事など、冷静に話してきた。ところがこの場所にきたとたん様々な感情がこみ上げてきた。父が一番好きだったところ、多分一番自分らしくいられたところだからだろうか。父が12月にかいた何枚もの「知覚動考」を持参した。「よかったらもらってください」そういったら、みなさん本当に嬉しそうに一枚ずつ持っていってくださった。
ふうちゃんがいなかった。父の死をまだ受け入れられず、この場所に来ると父を思いだしてしまうので来られないのだそうだ。正直、ふうちゃんにあったらどうしようと思っていたわたしは、ふうちゃんがいなかったので、ほっとしたのだが、その話を聞いてまたたまらなくなった。
帰り際「私も、リトミックでお手伝いできる事あれば喜んでさせてください」そうあの弔辞を読んでくださった土屋さんに伝えたら「そうそう、静先生お嬢さんが東京に勉強に行かれてた時、送り迎えしてるんだっておっしゃってました。また是非お願いします。」と。
そうだった。たくさんたくさん支えてもらっていたんだ。当たり前のように。千恵里が小学校高学年の頃、毎朝吉田神社まで散歩と称して歩くようになった。千恵里がいつも学校に遅れそうで時には車で駅まで送る事もあった日々、押しつけではなくただ毎朝歩いていた。「ちえり、今日ははやかったな」「れんちゃん、走ってったぞ」そんな事だけいって。父が神社でお参りするのと一緒に、毎日さおりもちえりもどんなに忙しくても神社で手を合わせていた。
「おねがいね!」と何度言ってきただろう。そのお願いを全部受け止めてくれた。
母はこうしていろんなところにご挨拶していくと、どんどん父の存在が消えていくようだと悲しがっていたが、私の気持ちの中で父の存在が日を追うごとに確かなものになり、自分の生き方を考えるようになっている。本当のところ、もう少し生きてほしかった。
私にはまだ「元気でやってるかね」と満面の笑顔で話しかけて来て下さるお父上に,長野に行けば会えると思ってしまいます。
同時に,この世とあの世の間が往き来できたらいいなあとも思います。
今日,野口校長先生の一周忌ということで,職員でお参りに行ってきます。
この世にお別れをする時(した時)、周囲の人は初めて自分を評価するのですね。
難しいです。川田先生の本読み直しています。
三日の日は皆さん本当にありがとうございました。あたたかなお時間頂きました。
特に田中先生、由美先生、お忙しいなか本当にありがとうございます。
頂いた知覚動考の書を大事にさせていただきます。本当にありがとうございます。
ずっと書が見いていて下さるような・・・気持に包まれます。そして、土曜日のリトミックのともくん、まなちゃんの自由な縄跳びの様子が心に浮かんできます。
ともくん達、きりっとして縄に入って跳びながら、笑顔が色々にこぼれてきます。あたたかくなります。
本当にありがとうございます。
皆さんと食事を頂けること、本当に感謝でいっぱいです。
次回は食材ももう少し食べたいなと思えるご馳走様を心がけて用意できるようにしたいです。
吉田神社 まだ生まれたばかりの奈央をおんぶしてよく寛之と散歩に行きました。パンの耳持ってはとにあげたり、ありにあげたり。車がなかったので毎日歩いて桐原神社も行ったし、ライフにも買い物に行った。
あの頃は毎日どうやって過ごそうか必死だった、アパートだと飛び回れないからいつも外にいた。
でもその時間が実はとってもかけがいのないものだったんだなあって今になって思います。
先日42歳の若さで友達が亡くなりました。中野の今の家に引っ越してからはなかなか慣れなくて、よく奈央と散歩しながら外の空気すってました。
「こんにちは、うちの子と同じくらいですか?」って声をかけてきてくれたあのさわやかな笑顔をいまでも覚えています。
奈央と私にとって始めてできた友達だった。
今中2の娘、中1と小5の息子2人の子育て、いつも一生懸命で前向きだった 彼女にいつも励まされた、たくさんの愛情をもらった
2年の闘病生活 「絶対よくなってまた美加さんの家にお茶飲みに行くから」って
来てくれるってずっと信じてた
一日でも一秒でも長く生きていたかった、まだまだやりたいこともあったのに どうして・・・
こうして生きていられること どんなにありがたいことか
彼女にたくさん教えてもらった、たくさんのありがとう
「知覚動考」 ありがとうございます。立ち止まりたくなることがおおくなってきた自分
いろいろな人や本、物との出会いや別れがなにかきっかけをあたえてくれてるんですね。